

担当講師:稲賀 繁美
(京都精華大学特任教授)
<推薦者のコメント>渡邉 文彦さん(全科履修生)
放送授業科目「日本美術史の近代とその外部」をおすすめします。来年度で終了とのことで急ぎ筆を執った次第です。
担当の稲賀先生の講義、ゲストの方々のお話、印刷教材、いずれも非常に興味深く、好奇心を搔き立てられるものですが、しかしこの講義の真骨頂はレポート(通信指導・単位認定試験)にあると言えましょう。
受講生は「独自の主題を、自らで探求」することが求められます。これだけ情報網が発達した現代においても、否、発達したゆえに、自分が独力で考察したつもりの仮説も、実はとっくに他の誰かが思い付いていた、という可能性が否定できません。しかしながら、その論証の方法に関しては、論者の数だけのバリエーションとオリジナリティが生まれ得るはずです。独り善がりではない客観性を保ちつつ、かつ他とは一線を画す論証を求めて呻吟する。それは生みの苦しみなのに愉しい、といった経験でした。
間もなく終了してしまうことが返す返すも残念です。自信を持って受講をお勧めいたします。
<稲賀先生からのコメント>
「独自の主題を、自らで探求」する、それが本来の大学での研究ですね。もちろん資格試験のような科目では、印刷教材の内容や社会の規則・技能を身につけることが要請されますが、これは技術専門学校などの教程でしょう。
本科目もそろそろ「おしまい」ですが、幕引きまえに、総括的な講師側の反省も述べます。
まず、受講生の皆さんから思わぬ話題についての探求の成果を拝読できて、とても勉強になりました。
とてもひとりの講師では踏破できない領域にまで、話題が連鎖して広がってゆくので、受講者各位からの答案を拝読するのが、愉しみでした―採点の返答期限があるため、眼精疲労で眼がしょぼしょぼになりましたが。また問題設定・仮説提起のうえで、本論を3ツにわけて議論を構築し、仮説を立証する手続きを踏み、独自の結論を導くという、論文作法のイロハを実践していただきましたが、受講生の多くが、これを体得してくださいました。社会生活でもこの「型」は応用が効くはずです。さらに印刷教材の間違い探しというコースも設けましたが、お陰様で講師の思わぬ誤謬や言い間違いが是正され、また新たな発見にも繋がりました。体験を踏まえた答案にはすばらしい文章もありました。
ふたつめに、これは実現できなかったことですが、これら受講生の皆さんからの答案をまとめて成果論文集をつくれれば、という夢もひろがりました。
偶然かさなった話題を選ばれた受講者のあいだで意見の交換や討論ができれば、これは研究チームの立ち上げ、グループ活動の切っ掛けになります。また他の受講生がどんな話題に関心を抱いているのか、これは8年近く重ねてみていくと、世相の経年変化を追うこともできて、社会学的な調査のための出版点にもなります。そしてなにより、幾つかの優れた答案は、専門学会での学会発表にも相応しいものでした。それは学会といった、ともすれば閉じた社会に受講生の皆さんの側から、思わぬ風穴を穿ち、あらたな展望を拓く成果でもありました。
3つめに、8年におよぶ歩みを現時点で振り返ると、この講座で提供した話題そのものが、もはや時代遅れになり、更新されなければならない時期を迎えていることも痛感されます。
これも可能ならば、いまでの受講生の皆さんから頂いた調査の成果を土台として、次世代の講座を創生することができれば、それが本来の学術の進展に繋がります。残念ながら講師はもう引退の年齢を迎えますが、次世代に引き継がれれば、これは望外の喜びです。時代は急速に変貌しており、昨日までの価値観は急速にそして、大きく塗り替えられえつつあります。学術の専門分野も再編成の時期を迎えて居ます。受講生各位からの答案はそれを雄弁に物語っている同時代史料の貴重な証拠物件です。採点をしてお返しし、単位を認定してオシマイではありません。むしろここを出発点として、次の世界が広がるはずです。
とりわけ生成AIの登場とその急速な発展は、本科目の課題対応にも、あらたな可能性を開いています。この2年で、受講生各位からの答案の情報量は急速に精度を高め、それに連動して、あらたな問題意識が芽を出す様子を観察することができました。
AIとの問答のなかから、各位が何を探しているのか、AIはどこで間違うのか、探していることと回答とが違うなあ。そんな違和感をたよりにAIを問い詰めてゆくと、逆に自分がなにを探そうとしていたのか、その輪郭が言葉になり、無限の問いへと誘われます。それはAIに出来合いの回答を見つけてもらう、という受け身の姿勢とは無縁です。でも閉じた回路で堂々巡りをはじめたら、AI君も種切れで疲れている証拠。AI使用者側でも慢性中毒は危険です。
見果てぬ夢としては、放送大学でも受講者の皆様とOB勉強会・OG懇談会が作れれば、すばらしいだろうなあ。放送大学での本当の学びも、そこから始まるのだと思います。学習センターの活性化もできそうですね。
<推薦者のコメント>小川 潤悦さん(全科履修生)
私がお勧めするのは放送授業の『日本美術史の近代とその外部』です。この科目の講師の稲賀繁美先生は印刷教材の前書きで次のように記している。
—「日本」「美術史」「近代」の問い直しから、はたして何が見えるようになり、なにが新たな課題となるだろうか—
このように講師が言うように講義の内容は、日本近代美術史の外観を提示しそれを学生が覚えることではない。徳川中期以降に限定し、「美術」と呼ばれてきた営みが近代の中でどのような動きをして何を果たそうとしたのか、または何が果たされなかったのかを自らの力で解き明かしなさいと講師は受講者に要求している。徳川中期の秋田蘭画から草間彌生や赤瀬川原平、関根伸夫などの現代美術に至る過程の中でこの難問に応える道筋を受講者は探し当てねばならない。
これは受講者にとってはとてつもない難問のように思える。だからと言ってこの科目を選ぶのは受講者にとっては決して無謀なことではない。講師は、自分の力でそれを探し出し、自分の言葉でそれを述べる受講者には正当な評価を与えてくれる。試験の設問の仕方も記述式のユニークなものだが、恐れることはない。たとえ試験がうまくいかなかったとしても受講に値する面白さがこの科目にはある。
<稲賀先生からのコメント>
仮説を立て、それを立証するという手続きは、日本の高等学校までの勉強では、ほとんど教えられていません。
また独自の見解を、必要な論拠を示しつつ、説得力のあるかたちで表明する訓練も、日本の公教育では疎かにされています。いうまでもありませんが、自分独自の仮説を立証するのに、一般書だけから、すでに広く知られている事実だけを拾い集めて、そこから必要かつ有効な新たな論拠を導きだすことは、無理な相談です。
しかし一般書、とりわけ学術論文は、いくつか合わせて読むと、著者によって意見や判断が対立しているケースが見えてきます。とかく高等学校までの勉強では、互いに矛盾しない常識の上澄みをお浚いして、当たり障りのない「一般論」を報告することが多かったと思います。
しかし大学での研究では、むしろこうした先行研究の矛盾や対立こそが目の付け所です。
なぜ定説がひとつに収斂しないのか。そこには、なんらかの問題が残っており、まだ未発見の鍵が隠されているのではないか?これが独自の仮説を立てるきっかけとなります。またどの媒体で情報検索しても、同じデータや論説の繰り返ししか出てこない場合があります。これは世間の常識がそこで「底を打ち」、考察や探求がその地点で停止していることの証拠でしょう。それでよいのか、おかしいぞ、という疑義、欠落や問題の発見が、つぎの一歩のための道標、有効な誘い水になります。皆さまひとりひとりの発見、常識への疑念が大切です。
新たな探索への出発点が、ここに開かれてくるからです。
小川様からのコメントの補足として:担当責任講師より
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公開日 2026-09-04 最終更新日 2026-09-04



