【学習センター機関誌から】「時の流れ」と「山口のまち」~面接授業を終えて

山口学習センター客員准教授
金谷匡人
(専門:歴史学・地域史)

私にとっては初めての面接授業。生徒さんたちもなかなかにハードな二日間だったと思います。

一日目は『防長風土注進案』を題材として、むかしの人の「時」に対する考え方やその過ごし方について考えました。日本では現在も、「西暦」「干支」「和暦」という三つの「時間の物差し」が生きています。このような時間の物差しを 3 つも持っているのは日本だけです。これらはそれぞれ違った性格をもっており、日本人はそれらを使い分けて暮らしに生かしているとも言えます。


「西暦」は一本の川の流れのような不可逆の永遠に続く時間の流れ、「干支」は60 年をサイクルとして循環する永遠の時間、「和暦」はリセットを繰り返しながら更新される時間、といってもいいでしょう。とくに和暦の「元号(年号)」は、今では法律によって天皇の代替わりで更新されますが、江戸時代までは吉事・凶事などによってもしばしば切り替わりました。

それらは、「過去を振り返らず、前を向いて進もう」(西暦)、「一回りして、生まれ変わったつもりでもう一度やろう」(干支)、「気持ちを新たに、リセットしよう」(和暦年号)という「時間との付き合い方」に対応しているともいえ、興味深いものがあります。

また、「一年の始まりはいつか」「一日の始まりはいつか」についても、いわゆる「旧暦」と現行暦を比較しながら考えました。「旧暦」といってもその実は「太陰太陽暦」で、その中には太陰暦の要素(月日の部分)と太陽暦の要素(立春や冬至などの「節」の部分)を併せもっており、そのせいで年の始まりや日の始まりについてもいくつかの考え方が併存していました。また旧暦の行事が現行暦の導入で動いたり動かなかったりするなど、日本人は昔からそれらを無理やりに統一することなく緩やかに生活に取り入れてきました。民間のいわゆる「年中行事」が地方によって、また昔と今とで大きな多様性をもっているのはそのためです。私たちはそのような「さまざまな時間」のなかで暮らしてきたのです。


二日目は江戸時代の山口の様子をあらわしたいくつかの絵図を概観した後、その絵図を持って教室を飛び出し、山口市の中心部を 4 時間にわたって歩きました。山口市中心部は江戸時代の絵図を持ってそのまま現在の町を歩くことができます。

室町・戦国時代に西日本最大の守護大名となる大内氏が山口に入って居館を構え、まちづくりをする基幹になった「大殿大路」と「竪小路」、江戸時代に萩往還と石州街道が重なって市として栄えた「大市」「中市」「米屋町」の様子、まちとその周囲との境界の様子など、いわゆる史跡めぐりやパワースポットめぐりのような「《点》のまちあるき」ではなく、「《線》のまちあるき」、そして「《面・空間》のまちあるき」を試みました。みなさんが経験されたことのあるまち歩きとは一味違うものだったのではないでしょうか。


いま「まちあるき」がちょっとしたブームですが、「まち」には方角(太陽=日射・日照)との関係があり、地形(高低=水流)があり、また風の吹き方や風景(そこから何がどう見えるか)も重要です。また「まちの内・外の境界認識」も大事な要素です。これらは農村や漁村でももちろん同様に重要な要素で、それを考慮した「まちあるき」が今後求められてくるでしょう。

写真は、山口街の南の境界点、「鰐石(わにし・わにいし)の重ね岩」で休憩した時の集合写真です。後ろに見える「鰐石橋」が「山口」と「大内御堀」をつなぎ・隔てた境界でした。そしてそこは単なる地理的な境界ではなく、新年に市がたち(この重ね岩はその市エビスであったとされます)、そこへのお供えの餅にあけた穴からあの世の親に会えるという「時空のさかいめ」でもあったことが伝承からうかがえる、重要なポイントです。

県立図書館を出発してこの折り返しの重ね岩まで約一万歩、復路はここから安部橋(道場門前と西門前の境)から幕末につくられた「新道」をとおって帰りました。高齢の方もおられましたが、皆さん健脚で無事に終えられたことに安堵しました。


二日間を通じて、受講生のみなさんから昔の話を聞いたり、まちあるきで地元や植物に詳しい受講生から説明を受けたりと、講師にとってもたいへん有意義でした。面接授業は、放送大学の学生さんが「単位」だけでなく、他の学生さんや野外から様々な刺激や知識を得る絶好の機会です。今後も積極的に受講されるといいと思います。


山口学習センター機関誌『とっくりがま』97号,2022年1月発行

公開日 2022-04-18  最終更新日 2022-05-10

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