【学習センター機関誌から】〈つもりて遠きむかし〉――蕪村俳諧の魅力

宮城学習センター 客員教授
佐藤 伸宏
(前東北大学大学院文学研究科教授/専門分野:国文学・比較文学)

 

近年に至って、與謝蕪村の俳諧(俳句)がしきりに思い起こされ、幾度も句集を読み返している。蕪村といえば、「牡丹散て打重りぬ二三片」、「ゆく春や重たき琵琶の抱ごころ」、「路たえて香にせまり咲いばらかな」、「月天心貧しき町を通りけり」等々、人口に膾炙した作品が数多くあるが、私が深く心惹かれるのは、例えば次のような句である。

遅き日のつもりて遠きむかし哉

蕪村が没した翌年の天明4年(1784)に刊行された『蕪村句集』所収の一句であり、「懐旧」と題されている。


「遅き日」とは春の日脚がのびて暮れ方が遅くなることを示す春の季語である。暮れかねてたゆたい、停滞する春の夕暮、その深い閑寂に包まれる中で時間の流れがひどく緩慢となり、今という時と場の現実感が稀薄となるような状況がまず呈示された上で、「つもりて遠きむかし哉」と続く。

その「むかし」とは、過ぎ去り既に失われた時なのではあるまい。「つもりて遠きむかし」――雪が降り積むようにひっそりと積み重なる、そっと柔らかく層をなすように静かに累積してゆく、そのような深々とした厚みとしてある時間に他ならないだろう。たとえ「懐旧」と題されているにしても、遠離り失われた特定の昔日の出来事への懐かしみがここに語り出されている訳ではない。蕪村俳諧における「むかし」は、そうした行きて帰らぬ時ではなく、むしろ今の背後に失われることなく在り続け、またそれに包まれて今があるような過去としてあるのではなかろうか。

「凧(いかのぼり)きのふの空の有り所」という同じ蕪村の著名な作品もここで自ずと想起される。そこでは、凧の浮かぶ春の空を描きつつ、今の空の背後に「きのふの空」がそのまま透かし見えている、或いは眼前に広がる空が他ならぬ「きのふの空」として見出されている。この句を支える眼差しが見出しているのは、例えば時計の秒針が表象する刻々と経過し失われていく時間とは無縁の空の姿であると言ってよいだろう。そのように流失する時間とは異質の時間性を備えた世界を蕪村は確かに見出していたように思われる。


そして「遅き日」の句では、そうした「むかし」を描き出すにあたって、一句を構成する母音の音色も又効果的に活かされている。「遅き日」の緩やかな動きに呼応するオの母音の反覆をイの音がひっそりと縫い合わせ、そして下五に至って、明るい開放音アの母音が連続して現れる。この句を織りなす言葉の音、響きによって、「むかし」の世界の現れが深い明るみで包み込まれるのである。この一句が伝えているのは、そうした今ならぬ、しかし過ぎ去った過去とも異なる、日常的な時間とは別途に存在する時間、言わば緩やかに積み重なり、遙かな厚み、深さとしてある時間の世界なのではあるまいか。

そしてそこには、私たちの生きる日常の現実においては見出すことの困難な、或いは現在の私たちが見失ってしまっている、柔らかな明るみに包まれた安らぎのイメージも確かに浮かび上がる。そのように流れ去ることなくたゆたい続け、静謐で深い安息をもたらすような時間が深々と息づいていること、今の私にとって蕪村俳諧の魅力はそこにこそある。


(宮城学習センター機関誌『ハロー・キャンパス』119号,2021年10月発行)

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公開日 2022-02-18  最終更新日 2022-02-24

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