【学習センター機関誌から】馬駈ける光源氏‐映画と古典文学と歴史学

滋賀学習センター 客員教授 京樂 真帆子

牛車(ぎつしゃ)の研究をしているからか、私はドラマや映画を見る時、映し出される乗り物が気になる。

例えば、吉村公三郎監督『源氏物語』(1951年、大映)。
母の墓参からの帰り道、光源氏(長谷川一夫)が牛車に乗り込む。
その傍には、馬一頭と輿も待機している。馬には家臣・惟光(これみつ)(加東大介)が乗った。
輿は墓参に付き添った僧侶のものだ、ということだろう。

小道具の設定が、なかなか細かい。
光源氏は、車の後方から(しじ)という踏み台を使って、平安時代の作法通りに乗り込んでいる。
このあたり、「校閲」として映画制作に関わった国文学者・池田亀鑑の指導があったと推察される。
モノクロ映像なので色は分からないが、牛車の車種は網代車(あじろぐるま)。平安貴族が常用した、平凡な車種である。


光源氏の道行きには少し地味であるが、墓参にはふさわしいのかも知れない。
都大路を行く隊列の、絵画史料の再現映像の如き様子を見ると、牛車の横幅が狭い、とか、そもそも平安貴族は墓参をしたのか、とか、山の上に立てられた石塔は平安時代の墓としてあり得るのか、などということは気にならなくなる。

さらに、光源氏は惟光と共に馬に乗って、都の外にでかける。時代劇のスター俳優長谷川一夫の乗馬姿が美しい。

 惟光:お疲れになったでしょう。/ 光源氏:久し振りに気持ちが良いよ。
 惟光:北山の行者(ぎようじや)が見たら驚くでしょうね。/ 光源氏:昨日まで山に籠もっていたんだからね。
 惟光:もう、わらわ病みもすっかり直りましたね。行者の加持(かじ)が効いたのかも知れません。
 光源氏:はっはっは。さあ、どうかな。毎日こうして野山に遊んだのが返って良かったのだろう。
 (琴の音)なかなかの弾き手だ。こんな所には珍しい。

と言って、紫の上(乙羽信子)と出会うのだが、ここでは光源氏が乗馬に慣れている、という点に注目したい。
『源氏物語』若紫では、「わらは病」(マラリア、か)に罹った光源氏が、治療のために北山の聖に会いに行く。
それは、「御供にむつましき(親しい)四五人ばかり」での「いと忍びて」の外出であった。


移動手段は明記されていないが、高熱に苦しむ病であるから、牛車に乗って行ったものと推察される。
そこでの治療が効いて体調が戻り始めた頃、光源氏は惟光と2人であたりを散策して、10歳の紫の上と出会う。
光源氏が惟光と野駆けに出掛ける、というのは映画の創作である。
しかし、光源氏を乗馬に慣れた人として描き、早駆けをさせるというのは面白い。

平安時代末期の平治の乱(1159年)において、平家軍が迫り来た時、貴族の右衛門督(うえもんのかみ)藤原信綱(のぶつな)は動揺し、馬から落ちてしまった。
それを見た武士の源 義朝(みなもとのよしとも)が呆れてしまうのだが、この信綱の失敗のせいで、都の貴族は乗馬が苦手、というイメージが流布してしまう。

いやいや、平安貴族も馬に乗る。しかも、疾駆させることが出来る。
貴族たちが残した記録類を証拠として示すまでもなく、この映画の光源氏が証明してくれている。
これは、鎌倉時代に成立したとされる『平治物語』が作り上げた「馬にも乗れない脆弱な貴族」イメージを、長谷川一夫の颯爽たる乗馬姿が一変させる、という画期的なシーンなのである。

さて、原作通りならば北山への道行きだが、そうとは思えないこの風景のロケ地はどこだろう、などと考える間もなく、聞こえてくる音楽が気になり始める。
軽やかなギャロップ音を背景に鳴り響く、これも軽快なピアノの旋律を、私たちはどこかで聞いたことがある。
いや、ピアノではない。トランペットで演奏される、勇ましいこの旋律を私たちは記憶している。

それは、映画『ゴジラ』(1954年、東宝)。大戸島災害調査船しきねの出航および航行中のテーマ曲である。
この二つの映画の音楽監督は、伊福部昭。つまり、1951年の平安絵巻映画の音楽を、1954年の大怪獣映画に再利用したのだ。

そうと知ると、馬に乗る光源氏が向かう山の彼方から、ゴジラが出て来るような気がしてくる。
無心に映画を楽しめない、というのは研究者にはありがちな不幸の一つである。


滋賀学習センター 機関誌「樹滴」第120号より

 

公開日 2022-01-18  最終更新日 2022-11-01

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