青森学習センター 客員教員 尾崎 名津子 (弘前大学人文社会科学部准教授)
私の専門は日本近現代文学です。こう自己紹介をすると、時々「文学の論文って読書感想文と変わらないんじゃないですか︖」と訊かれることがあります。
結論を先に述べれば、論文と感想文は明確に異なります。そもそも文学作品というものは、読者一人ひとりが自由に読んでよいものです。
論文を書く場合でも、まずは自由に想像をめぐらせ、解釈を加えながら作品を読みます。それを研究・論文にするためには、批評する力が必要になります。
文学作品を批評する際には、批評理論(文学理論とも言います)を参照します。批評理論とは、作品を客観的に読むための方法のことです。いくつもの方法がありますが、ここでは異化に着目します。
異化とは、ロシアの文芸批評家・シクロフスキーが提示した、日常的な言葉遣いと文学作品の表現との違いを言うための考え方です。
異化とは、読者が物事を認識するまでに時間をかけなければならないように工夫された表現のことで、これこそが日常的な言葉遣いと文学的表現との違いだとシクロフスキーは言いました。
具体的には比喩や同じ表現の反復などによって、読者が「これはどういうことだろう︖」「何が書かれているのだろう︖」と考えるように仕向けることが、〈異化された言語表現〉となります。
では、中上健次の『枯木灘』という小説の冒頭をもとに考えてみましょう。
光が撥ねていた。日の光が現場の木の梢、草の葉、土に当っていた。何もかも輪郭がはっきりしていた。曖昧なものは一切なかった。いま、秋幸は空に高くのび梢を繁らせた一本の木だった。一本の草だった。
〔中略〕
今日もそうだった。風が渓流の方向から吹いて来て、白い焼けた石の河原を伝い、現場に上ってきた。
秋幸のまぶたにぶらさがっていた光の滴が落ちた。汗を被った秋幸の体に触れた。
それまでつるはしをふるう腕の動きと共に呼吸し、足の動きと共に呼吸し、土と草のいきれに喘いでいた秋幸は、単に呼吸にすぎなかった。
光をまく風はその呼吸さえ取り払う。風は秋幸を浄めた。風は歓喜だった。
この部分に、どのような異化表現が見えるでしょうか。少し考えてみてください。
引用・参考文献
・シクロフスキー『散文の理論』︓せりか書房、1971 年、原著1925 年
・中上健次『枯木灘』︓河出文庫、初刊1977 年
青森学習センター機関紙 りんご-林檎-第109号(令和4年1月発行)より
公開日 2022-04-18 最終更新日 2022-11-01