【学習センター機関誌から】そこに「発言」があるから

堀江 剛 大阪学習センター客員教授
大阪大学大学院人文学研究科 教授

 

 

昨年度から、大阪学習センターで「哲学対話を楽しむ」という授業を担当しています。哲学と言えば、やたら難しい専門用語で人を煙に巻く、ひとり沈思黙考する、アリストテレスやカントといった難解な古典に精通しているといった「哲学研究」のイメージですが、「哲学対話」はそうではありません。日頃私たちが出会う具体的な体験と日常の言葉だけで、そしてひとりではなくみんなで話し合うことです。

それで「哲学」できるのか、何が目的でそんなことをするのか、何の役に立つのか、といった疑問もあるでしょう。あえて言い放ってしまえば、特に目的といったものはありませんし、直接何かの役に立つかどうかも分かりません。ただ、みんなと対話を「楽しむ」ことです。具体的な体験に基づいて、粘り強く人の発言を聴き、また自分の思っていることをなんとか言葉にしようとすること、これを積み重ねていくだけです。それが、不思議と「楽しい」時間となる。楽しむのに「目的」や「役に立つかどうか」を問うのは、野暮というものでしょう。それで本当に「哲学」になるの、と訝る人もいます。けれども、それがなってしまう。

哲学対話の「目的」ついては、こんな比喩を持ち出すこともできるでしょう。一人の山男が「なぜ(何の目的で)山に登るのか」と問われるとき、答えは「そこに山があるから」です。同じように、一人の哲学者が「なぜ哲学するのか」と問われたとします。どう答えるでしょう。「そこに哲学があるから」でしょうか。確かに、壮麗で険しそうに見える「山」と同じく、壮麗かどうかは別として、難しそうに見える「哲学書」に立ち向かう魅力を言うことはできるかもしれません。しかし、これは「哲学研究」の話。

さて、哲学研究ではなく「哲学対話」(に参加する人たち)が、なぜ哲学するのか。もしくは、なぜ哲学することになってしまうのか。私の考える答えは、そこに「発言」があるから、というものです。よく分かる話でも分かり難そうな話でも、誰かが何か発言する。そこで別の誰かが「よく分からない」とか「それってどういうことなの」と問いかけることもあれば、思わず「あるある」とか「それなー」などと応じることもある。話が噛み合うこともあれば、そうでないときもある。こうした「発言」のやりとりそれ自身の魅力、話が噛み合ったときの楽しさです。もちろん噛み合わないときもあるでしょうが、粘り強く対話を続けた後、眼前に開けてくる「絶景」もまた魅力。山男の気持ちと、同じではないでしょうか。

もちろん、哲学対話には深く練られた「方法論」があります。進行役は、それをよく知っていて、なにげに「楽しむ」ための工夫を凝らしています。危険を察知して、参加者の発言に「待った」をかけることもあります。山のガイド役ですね。面接授業や勉強会で私が進行役を務める「ソクラティク・ダイアローグ」は、哲学対話の方法としてはハードな部類に属するのかもしれません。何しろ、たった一つの「問い」をめぐって丸々二日間、一つの「答え」を目指して少人数で取り組む本格的な「哲学対話」ですから。それだけに、様々な発言が協力し合って、なんとかたどり着いた先の景色もまた、哲学的な示唆を得るたくさんのものを含んでいると感じています。それが、もしかすると人生の「役に立つ」かも。


大阪学習センター機関誌「みおつくし」第89号(2023年4月発行)より

公開日 2023-08-23  最終更新日 2023-08-23

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