【学習センター機関誌から】標準を見つけることの難しさ

北海道学習センター 客員教員 伊藤 一男

古典文学作品の研究を手がけていて、特に困難を感じるのが、その当時の標準的な感覚はどうであったか、ということである。
古典文学作品を見ていると、様々なことが書かれている。
それがよくあることとして書かれているのか、それともめったにない珍しいこととして書かれているのか、いずれとも判断がつかない。

物語の中に登場するある風景が、当たり前の風景として語られているのか、特異な風景として語られているのかは、その場面だけで判断できないことがほとんどである。
しかし、どちらであるかによって、その場面の意味合いは大きく異なってくる。

例えば、『落窪物語』には、浮気を許さない女主人公とその侍女あこきが登場するが、もし、当時の感覚では、一夫多妻が当たり前だとしたら、この二人はとてつもない変わり者だと言うことになり、この物語はそういう変わり者に注目した物語ということになってしまう。

いったいどちらなのだろうか。他の物語などからすると、一夫多妻が一般的な感覚のようではあるのだが。
また、『竹取物語』なども、世間の感覚が気になるところの多い作品である。かぐや姫をめぐっての難題求婚譚であるが、最初に五人の貴公子にそれぞれ異なる難題が提出されるのもよくわからない。

もし、複数の人間が求められたものを手に入れたらどうするつもりだったのだろう。
貴公子達の態度からすれば、早い者勝ちというわけでもなさそうである。
他の人たちの邪魔をする様子も見られない。当時の人たちは、このような展開をどのように受け取っていたのだろうか。

こういう場合、通常は失敗するものだというのが常識的な感覚であったら、読者達の興味は、どのように失敗するのかという点に向かったであろうし、誰か一人が成功するものであったら、誰がどのようにし遂げるのかという点が気になったはずであろう。

現在の生活の中でも、世間の感覚がどうであるかというのは、中々読み取りにくいところがある。そういうときには、それが必ずしも正しいとは限らない。

ましてや、何百年も前の世界のことである。何らかの仮定によることしかできない。
それがどれだけ当時の実態に近いかは、きっと不明なままに終わるのではないか。


北海道学習センター「てんとう虫」第128号(2022年7月発行)

 

公開日 2022-11-18  最終更新日 2022-11-18

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