【学習センター機関誌から】私のお遍路体験②(学生作品紹介ページ)

(宮崎SC)全科履修生 柴田 俊一

私は始め、自分自身の事を祈っていたが、いつの間にか人々が平和に過ごせるように、世界平和が続くように変わっていた。
なぜ変わったのか。今、考えても分からない。
お遍路をしている途中でお遍路をしている人達を見たり、交流を通して自分自身の祈りなんか、ちっぽけに見えてきたのだろうか。


1日目は1~8礼所、2日目9~11礼所、3日目12~23礼所、4日目24~34礼所、5日目35~42礼所、6日目43~50礼所、7日目51~59礼所、8日目60~67礼所、9日目68~80礼所、10日目81~85礼所、11日目86~88礼所を巡り、巡拝が終った。
巡拝が終わることを結願と言う。記念に結願書を書いてもらう。
私の場合、1番礼所霊山寺にお礼参りに行き、また和歌山県に渡り、高野山の奥ノ院にお礼参りに行った。
巡拝が終わり思うことはもう一度、ゆっくりとお遍路に行きたいと願っている。私自身、よくお遍路を思い立って実行したと自画自賛している。

75番礼所の善通寺で宿坊を体験、善通寺は弘法大師が産まれた場所で宿坊には温泉があり、そこで若い修行中の僧と出会い、いろいろ真言宗の事を聞き良い勉強になった。
73番礼所の出釈迦寺で四国霊場会公認先達の人に出会った。この寺は、弘法大師が真魚と呼ばれていた7歳のとき、「私は将来仏門に入り、仏の教えを広めて多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を捨てこの身を諸仏に捧げる」と、断崖絶壁から身を投じた。
すると、紫色の雲が湧き、釈迦如来と羽衣をまとった天女が舞い降り、雲の中で弘法大師を抱きとめた。命を救われ、願いが叶うことを示された弘法大師は、青年になって我拝師山の山頂で刻んで安置し、堂宇を建てたとされている(参考:出釈迦寺Webサイト)。
その場所がこの寺の奥の院とされる。その人は奥の院に久しぶりに行って来たと言っていた。
車を駐車場に入れた時にお寺から降りられ、そこで会い、私の車を見て、「わざわざ宮崎県から来たのですか」と言われ、これも弘法大師の縁だとお札を頂いた。
1番礼所霊山寺に行き、お礼参りの時にその時のお札を見せたら驚いた顔をして、「こんなお札を人は捜している、このお札は魔除けになるから大事にしなさい」と言われた。
お札はもらったが気に留めていなかった。改めて見ると南無大師遍照金剛四国霊場巡拝第549回73歳と書いてあり驚いた。
南無大師遍照金剛の意味は「弘法大師空海に帰依する」こと。今、世界遺産にする為に運動をしているそうだ。


お遍路に行ってつくづく思うことがある。
1200年の歴史があると言うが昔の人は命懸けで行ったのだろう、歩きお遍路はひとつの行で車でも大変なのに、昔の人は生活に苦しく、生きること自体大変な時代で死を覚悟でお遍路に行き、祈りをする事で救われたと思いたい。その人達は仏に近い人達だったと思いたい。

私は若い頃3年ぐらい、山の会に入り山を登っていた時期があった。
その頃の山の会の人達は、皆さん年を取って、今は登らなくなった。
私は、今はよく、ひとりで登る。山を登っていると自分自身に向き合う時間がたくさんある。
お遍路も、自分自身に向き合う為に、行く事自体が「弘法大師」空海の最大の功徳だと私は思いたい。
私がお遍路に行って変わった事は、毎日線香を上げて、仏説魔訶般若波羅蜜多心経を読経する事である。
みなさんもお遍路に行って自分自身で体験してみてください。


(宮崎学習センター機関誌「向日葵」第104号(令和4年4月)より)

機関誌「向日葵」バックナンバーはこちらから→https://www.sc.ouj.ac.jp/center/miyazaki/about/magazine.html

公開日 2022-05-18  最終更新日 2022-08-15

関連記事
インターネットで
資料請求も出願もできます!