【教員コラム】福沢諭吉と物理学

松井 哲男
特任教授(自然と環境コース)

皆さんは福沢諭吉と聞くと何を思い浮かべますか?明治日本の有名な教養人、『学問のすすめ』の著者、慶應義塾大学の創設者、現在の1万円札の肖像、等々。およそこの表題にある物理とは全く縁のない人、と思っていませんか?
実は、彼が若い時に一番やりたかったのは物理学の研究だったのです。このことはあまり知られていないのですが、ここでそれを紹介したいと思います。

彼の口述筆記による『福翁自伝』によると、幕末の二十歳になったばかりの頃、大坂の緒方洪庵の「適塾」で学んでいたときに、蘭語で書かれた物理学書を手に入れてファラデーの電気説のこと等を知り、物理に非常に興味を持ったと書かれています。
彼は中津藩(大分県中津市)の下級藩士の出で、若い頃は儒学を学びましたが、だんだんそれに興味を失い西洋文明に傾倒していきます。その橋渡しをしたのが物理学だったようです。当時の日本は、「黒船ショック」で開国か攘夷かで騒然としていましたが、福沢は藩命で蘭学塾の講師として江戸に向かいます。福沢にとって物理学は、西洋医学と同様、西洋文明の優位性の背後にある「実学」だったようです。

蘭語を学んだのちも、独学で英語を学び、幕府がオランダから買い入れた咸臨丸に船長の木村摂津守の従者として乗り込んで、訪米しました。1860年のことです。その後、幕臣の通訳として欧州諸国を1年程周り、またもう一度訪米して、海外で見聞したことを『西洋事情』などで紹介して、日本の西洋化の寵児となりました。
彼を明治新政府の役人として迎えたいという誘いもあったようですが、それはきっぱりと断り、彼は在野で日本の近代化に尽くしました。彼は学問奨励の道を登りつめ、今日の日本学士院の前身である東京学士会院の初代会長を半年間務めています。

福沢が還暦を前にした1893年に三田の慶應義塾で行なった講演の速記録が残っています。その題目は『人生の楽事』となっています。ここで「楽事」というのは、誰もが持つ趣味や志(こころざし)のようなもので、旅行好きな人、逆に家に一人籠っていたい人、絵画や骨董品を蒐集したい人、お金集めが好きな人、立身出世したい人など、千差万別あります。
福沢にとっての「楽事」とは物理学を学ぶことであり、本当は若い時から物理の研究をしたかったのだけれど、時代がそうさせてくれなかった、と告白しています。そして、日本に物理学の小さい研究所を作りたかったとも言っており、具体的にどのくらいの費用が必要か現実的な試算もしています。結局それもかないませんでしたが、ここで彼がこういう話をしたことを誰かが覚えていて、彼の死後にそれが実現されれば、草葉の影で感涙しているだろう、と話を締めくくっています。

福沢はこの講演の前年には北里柴三郎の伝染病研究所の設立に尽力したと伝えられていますが、彼が本当にやりたかったのは、自分が好きだった物理学の研究所を作ることだったようです。

 

(この記事は、2023年に執筆されました。)


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公開日 2024-04-30  最終更新日 2024-04-30

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