【学習センター機関誌から】バンクシーと「国民保健サービス(NHS)」―医療従事者へのエールとして―

秋田学習センター客員准教授 大西 洋一

この3月に正体不明の芸術家バンクシー(Banksy)が描いた絵画がイギリスで競売にかけられ、1675 万ポンド(約 25 億円)で落札されたというニュースがありました。バンクシーとは神出鬼没のグラフィティ・アーティストで、その作品は何の予告もなく忽然と街の片隅に現れて人々を驚かせています(グラフィティとは「落書き」という意味で、主にスプレーを用いて、建物の壁など公共の場に描かれる文字や絵のこと)。

チンパンジーの集団が議席を占めている国会を描いた代表作「退化した議会(Devolved Parliament)」のような本格的な油彩画もあり、世相を反映した題材を諷刺的な視線で描き、作品自体がすぐれた社会批評になっているのがバンクシーの特徴で、彼の作品はこれまでも人々の注目と喝采を集めていました。

今回驚くほどの高値で落札されたのは素朴な絵で、描かれているのは人形で遊ぶ男の子の姿。ただし、その人形はよくあるスーパーヒーローではなく(実際、スパイダーマンやバットマンは脇のカゴでほったらかし)、胸に赤十字をつけ、ヒーローのごとく右手を上げて空を飛ぶ女性看護師です。


絵のタイトルである「ゲーム・チェンジャー(Game Changer)」は「試合の流れを変える選手やプレイ」という意味ですが、現在のコロナ禍の文脈においては、今や時代のヒーローは代わり、英国において獅子奮迅の活躍をしている医療従事者、特に「国民保健サービス(National Health Service、通称 NHS)」制度下の病院で身を粉にして働いている人々を現代のスーパーヒーローとして賞賛しようというメッセージと捉えることができます。実際にこの絵は英国サウサンプトンの NHS 病院に送られたもので、オークションの収益は NHS に回されたといいます。

第二次世界大戦直後の英国で、「揺りかごから墓場まで」の福祉国家を目指したクレメント・アトリー労働党政権が残した最大の業績の一つが「国民保健サービス」です。国民皆保険を当然のように享受している日本ではその意義が見失われがちですが、医療を国有化し、国民が等しく無料の医療を受けることを市民的権利として制度化した NHS は特筆すべき大きな達成でした。


2012 年に開催されたロンドンオリンピックの開会式でも、シェイクスピアからミスター・ビーンに至る名だたる英国の文化を紹介する中で、実は NHS も取り上げられていました。開会式の芸術監督を務めた映画監督ダニー・ボイル(Danny Boyle)が、イギリスが生んだ世界に誇れる輝かしき社会福祉制度として「国民保健サービス」を称揚していたのです。

しかしながら近年の NHS は、十分な資金と人員が投入されずに運営基盤が弱体化し、提供する医療サービスの質が低下の一途をたどっていることばかりが取り沙汰されていました。そこに新型コロナウィルスが到来して猛威を振るったわけですが、NHS のスタッフはこの危機に際してまさに身を挺して人々の命を救うべく奮闘し、その姿は広く国民の賞賛の的となりました。

私が専門とする演劇の分野でも、NHS が英国社会にもたらした恩恵を描いた連作劇「最大の富(The Greatest Wealth)」(2018 年に NHS 創立 70 周年を記念して製作)をオールド・ヴィック劇場(the Old Vic)が動画サイトで無料放映して謝意を表していましたが、バンクシーの作品もまた医療従事者への感謝の意を込めたエールとなっていたのです。 もちろん現状では様々な問題を抱えた制度ではありますが、「国民保健サービス」が高邁な理想のもとに成立した画期的な医療体制であったことを思い起こし、今この瞬間も献身的に働いている NHS の全スタッフに、そして全世界の医療従事者に私もまたエールを送りたいと思います。


秋田学習センター機関誌「ばっけ 」第97号より

公開日 2021-07-19  最終更新日 2022-11-08

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