大分学習センター 客員教員 渡邉 亘
(大分大学教授)
●心はどこにあるのか
太古の昔から「心はどこにあるのか」という議論があります。この問題は今も解決されていません。
ハートheartという英語が心臓と心の両方の意味を持つように、また「心臓」という言葉が文字通り示すように、「心は心臓にある」という考え方がありました。「心は脳にある」という考え方もあります。この考え方に立てば、脳のメカニズムが明らかになれば心の謎はたちどころに明らかになるのかもしれません。しかし、「心は私と相手の間に存在する」という考え方もあります。この考え方に立てば、心は私たちの体の中(心臓や脳)ではなく、体の外、つまり私と誰かの間に漂っているとか、私と誰かの間に架け橋のような形で存在するということになります。
相手が誰であるかによって私たちの気持ちや言葉は変わってきます。例えば、相手が心を許している人であれば、落ち着いた気持ちになり、時には誰にも言えなかったことを打ち明けたりもします。しかし、初対面の人や、あるいは警官が職務質問などしてきた場合には、緊張感や警戒心が高まり、表面的な話にとどまったり「下手なことは言うまい」と思うでしょう。時には、相手と話をしているうちに、自分の意見が変わったり新しいアイディアが浮かんでくることもあります。相手が目の前にいなくても、ふと大切な人のことが頭に浮かんで、「あの人だったらこんな風に言うだろうな」と、自分の決断を助けてくれることもあります。こんな風に、私たちの心は私たちの一部でありながら、誰かとの間に存在しているのです。そして、私たちの心は相手との関わり合いを通じて、その都度、姿をかえていくのです。
●創造思考
私の専門は臨床心理学(カウンセリングや心理療法)ですが、こんな風に考えてくると、「悩みを抱えている人の心の中には、悩みの原因が隠されているのだから、それを明らかにして、解決に導く必要がある」という原因追究思考だけでは足りないということになります。そうではなく、「私との間で、新しくどんなストーリーが展開していくだろうか」という創造思考が必要になってきます。
ところが、私たちには「問題には必ず原因がある」という発想が染みついていて、なかなか原因追究思考から自由になれません。つい犯人探しに没頭してしまうのです。そんな時、私がすばらしいと思うことの一つは、子どもの遊びです。子どもは誰かに指示されてではなく、自由に自発的に遊び、その中で工夫と試行錯誤を繰り返し、世界の真実を発見したり、自分の世界を創造します。また、詩も多くのことを教えてくれます。小説などに比べて、詩は短い言葉で構成されます。それだけに詩人は自分の考えや気持ちを短い言葉に託そうともがきます。その結果、端的で、鮮やかで、その詩人ならではの詩が創造されます。そこには、原因を分析するといったことが述べられているのではなく、ただ生きることの切なさ、けなげさ、複雑さ、豊かさが描かれており、それは私たちに生きることを励ましてくれるのです。
●他者の必要性
人の心における創造の営みが進むためには、その場に立ち会う誰かが、現実にあるいは心の中に存在していなくてはなりません。伴走してくれる他者が必要なのです。人の心を考える時、このことを真剣にみつめていかなければならないのではないかと考えています。
参考文献
河野 哲也 2006 〈心〉は体の外にある:「エコロジカルな私」の哲学 NHKブックス
大岡 信 1985 詩・ことば・人間 講談社学術文庫
大分学習センター 機関誌「ゆふ」第105号より
公開日 2022-03-18 最終更新日 2022-11-01