放送大学 情報コース 辰己 丈夫 教授
2022年4月8日、山口県の阿武町が、新型コロナウイルスへの対応のための臨時特別給付金4630万円を、1世帯の銀行口座に振り込んでしまう、という事件がありました。もともとは、463世帯に10万円ずつを振り込む予定だったので、単なる作業ミス、ということです。
この誤って振り込まれたお金に対して、町は振り込まれた口座の名義人に返還を要請しました。しかし、この名義人は要請を拒否しました。他人がうっかりしてしまった結果、自分にお金が入ってきたとき、「ラッキー」と思って返さないのは、道徳的に正しくないと、誰でも思うでしょう。でも、それを罪にするのには、どの法律を使えばいいのでしょうか?
この名義人は電子計算機使用詐欺罪で逮捕されました。
電子計算機使用詐欺罪って、どういう罪でしょうか?
これは、電子計算機や、電子計算機が使用する媒体に、虚偽の情報を入力することなどで、財産などの利益を得る行為を禁止するものです。1987年に新設されました。この少し前には、偽造テレホンカードが社会問題になっていました。また、1981年には、銀行従業員が現金の「アテ」がないのに入金操作をしたのち出金し、海外逃亡するという事件もありました。
このような行為を罰するための罪名といえます。
では、なぜ、今回の事件、電子計算機使用詐欺罪なのでしょうか。今回の容疑者は、誤って送金されたお金であることを知りつつ、それを使用して、オンラインカジノ業者に利益を与えたことが、容疑となっています。つまり、「うっかり送金」を受け取った事自体には罪はなく、それを「電子計算機などを利用して送金したこと」が、罪に問われているのです。
1985年、倫理学者であるジェームス・ムーア(ダートマス大学哲学科教授、当時)は、このような状況を「指針の空白」と呼びました。これは、情報技術のように普遍性が高く、しかも、急速に発達・変化する領域では、指針が成立する前(指針の空白期間)でも新しい技術が社会で用いられてしまう状況のことです。今回の誤送金の事件も、情報技術の普遍性が背景にあり、まさに指針の空白を突いた事件ではないでしょうか。
本件は、現在は起訴されて裁判が始まる前です。最終的にどのような結果になるのかはわかりません。もし、容疑者が無罪となれば、その後、電子計算機使用詐欺罪では有罪にできないことになるので、今回の事件のような例に当てはまる新しい罪名が立法府によって作られるでしょう。指針の空白は、このようにして埋められていくのです。
(この記事は、2022年7月1日に執筆されました。)
公開日 2022-08-19 最終更新日 2023-10-20