伏見 雅人
秋田学習センター学校医
私はセンターの学校医として健康相談(カウンセリング)に応じています。本稿ではその意義について述べてみたいと思います。相談は大きく二種類に分けられます。一つはガイダンス性の高い相談で、もう一つはカウンセリング性の高い相談です。例えば入学や履修登録の際に必要な手続きがよく分からなくて相談する場合はガイダンス性の高い相談といえます。この場合は相談を利用する者(以下、相談者)の問題を解決するために相談に対応する者(以下、相談員)が情報を提供し、相談者がそれをもとに最良の選択をします。この相談は説明や指導を主体とします。これに対し、カウンセリング性の高い相談は、例えば「自分はどのような人間になればよいのか」、「自分の人生をどう切り開いて行けばよいのか」といった悩みに対し、その克服への一助として提供される心理的な支持といえます。このような悩みは簡単に答えを提示できるものではなく、相談員はあくまでも相談者自らが解決策を見いだすための手助けしかできません。私が対応するのはどちらかというと後者の相談です。この相談においては相談者が何を訴え、何を伝えようとしているのかをまず理解し、前述の通り相談員が拙速に結論を出して指示するのではなく、可能な限り相談者の自己決定を促す姿勢が求められます。
私は医師として診療する際はもちろん診断や治療を考えてみるわけですが、相談対応の際には「相談者が病気なのか、病気であれば診断は?」といったことはあまり考えず、まずは相談者がどのようなことに悩み、何を問題と感じているのか、何に困っているのかを理解するよう心がけています。ただし、悩みの背景や原因に何らかの病気が関係していると思われる場合もありますので、そのような場合には病院受診を勧めることもあります。なかには診断されて(病気が原因であるとわかって)安心する人もいます。また、いわゆる「情」と「理」とをバランスよく使い分けることも心がけています。「情」は人情味や情緒的な面を重視し、感情表現を豊かにした対応です。これにより相談者は受容され、共感してもらえたと感じることでしょう。しかし、一方で相談員は「理」、すなわち感情に流されず、理性的に対応する必要もあります。「情」に偏り過ぎると理性に乏しくなり、感情的対立やトラブルの危険性が高まります。逆に「理」に偏り過ぎると冷淡で情に欠け、受容や共感性に乏しい相談員と思われてしまいます。人は悩みを抱えているときには、気持ち(心)の整理が未だ付いていない場合が多々あります。誰かに相談することによって、悩みの内容が明確になり、さらには悩みのために自身の心に湧き起った感情も明確になります。その結果、自身の心が安定を取り戻し、(心にゆとりが生まれ)、悩みや課題、状況にどう対処したらよいか自身で考えられるようになる、すなわち自己決定能力の回復につながります。皆様も相談の必要性を感じた際には遠慮せずにセンターの健康相談(カウンセリング)を利用してみてください。
秋田学習センター機関誌「ばっけ」第109号(2024年5月発行)より掲載