【学習センター機関誌から】みずから考えること

坂上 康博

東京多摩学習センター客員教授

往々にして、わたしたちは、みずから考え、また、これを組み合わせることによって、さまざまに苦労を重ね、長い年月を費やして、ようやく作りあげたある真理やある見解が、ふと手にしたある書物のなかに、そっくりできあがっているのを見つけて、がっかりすることがあるとしても、やはり、みずから考えて獲得した真理なり見解なりは、ただ読んで知ったものにくらべると、百倍以上も価値があります。(中略)

単に学んで知った真理がわたしたちに付着するぐあいは、ただ、義手・義足・義歯・蝋細工の鼻、あるいは、せいぜい他人の肉を材料にした造鼻などがわたしたちに付着するくらいの程度のものにすぎません。しかし、みずから考えることによって獲得した真理は、生まれながらの手足と同じく、これのみが、真に、わたしたちの躯幹に所属するのです。

…………ショーペンハウアー「みずから考えること」(1851年)、鶴見俊輔他編
『生きる技術(ちくま哲学の森8)』筑摩書房、1990年、pp.247-249

この文章に出会ったのは、今から33年前、大学教員になって間もない頃でした。社会学系の学科では当時めずらしかった「スポーツ文化論」という科目や、卒論指導をメインにした3、4年生のゼミなどを担当していた私は、「授業で何をどう教えるべきか」という根本的なことで悩み始め、なかなか納得できる答えが見つからず、もがいていました。受験勉強のような知識の暗記ではなく、探究することの面白さを伝えたい、思考力や洞察力を鍛えるような授業がしたい、そんな思いを持ってはいたものの、それが本当に自分のめざすべき方向なのか、今一つ自信が持てずにいたのです。そんな時に出会ったのが、ドイツの哲学者ショーペンハウアーの「みずから考えること」でした。

まったく同じ真理や見解であっても、みずから考えることによって獲得したものは、書物などから得たものの百倍以上の価値がある、そしてそれのみが自分の身体の一部になる、というショーペンハウアーのこの力強い文章に、私は大きな勇気をもらいました。それ以来、授業のねらいや卒論について説明する際にこの文章をしばしば紹介し、自分の思いを学生に伝えるようにしてきました。

こうして30年以上にわたって私を支えつづけてくれたショーペンハウアーの文章なのですが、今回久しぶりに読み返してみたところ、上記の文章のすぐあとに「思想家と単なる学者との差別は、まさしくここにあります」という一文があることに気づきました。ショーペンハウアーの区別によると、要するに、「みずから考えることによって獲得した真理」を身につけている者のみが「思想家」であり、「単に学んで知った真理」しか獲得していない者は「単なる学者」ということなのです。

ショーペンハウアーが批判のやり玉にあげていたのは、実は学者だったのです。うかつにもそのことに気づかず(忘れてしまった?)、もっぱら学生に向かって「みずから考えること」の大切さを語ってきた私は、ブーメランのように戻ってきた突然の強烈なパンチで鼻をへし折られてしまいました。おまえは「単なる学者」か「思想家」か、と問われて、「思想家」だと答える自信は今の自分にはありません。でも、「単なる学者」のままでいたら、教え子たちに会わす顔がありません。

ショーペンハウアーの文章には、そんな私を励まし、懇切丁寧に導いてくれる羅針盤も埋め込まれていました。たとえば、「最も有害なことは、絶えざる読書により他人の思想があまりにも力強く流れ込むことです。(中略)読書の性質がすでにこのようなものですから、あまりに多く読みすぎてはいけません。さもないと、精神は代用物に慣れ、そのため、事物そのものを学びそこないます。(中略)いささかなりとも、読書のために、自分の眼を現実の世界からまったく引き離すようなことをしてはなりません」。「思想家・天才・世界の啓発者・そして人類を進歩させた者は、直接に、この世界という本を読んだ人たちです」。

ということで、残りの人生で、「思想家」に近づくための新たな挑戦を試みていきたいと思います。


東京多摩学習センター機関誌「多まなび」第29号(2024年1月発行)より掲載

公開日 2024-06-28  最終更新日 2024-06-28

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