【学習センター機関誌から】学問スルハ、心ヲ直サム為ナリ

岡本 彰夫
放送大学奈良学習センター 客員教授
(専門分野:神道学)

 

 

若い頃は只管、受験のために学問はするもので、常に傾向と対策に身を置いて来たのは私一人ではあるまいと思う。

おおよそ二十歳を過ぎる頃迄、学問の何たるかを問われも、考えようともしなかったし、耳を貸すことは無かったと思う。しかし六十を越えてくると話は別だ。何のために学問をし、何のためにそれを役立てていかねばならないのだろう。

随分以前に、亡くなった浄瑠璃寺の御住職・佐伯快勝師が、お説教の中で「学問するは心を直さんためなり」と、古語を引用された事を思い出して、その原典を知りたくて、親友の西大寺・酒部浩明師に教えを乞うた。

それは鎌倉時代の名僧で、西大寺中興の祖、後に興正菩薩こうしょうぼさつの名を朝廷より賜った叡尊えいそん上人が、弟子に示された数々の教えを書き留めた『教誡聴聞集(きょうかいちょうもんじゅう)』の中にあった。大切な内容なので原文を示して、要点を説明しておこう。

或時(あるとき)御教訓云(ごきょうくんにいわく)学問(がくもん)スルハ、(こころ)ヲナヲサム(ため)ナリ。当世(とうせい)(ひと)(もの)ヲヨク読付(よみつか)ムトノミシテ(こころ)ヲナヲサムト(おも)ヘルハナシ。学問(がくもん)(もうす)ハ、(まず)()()(おもむき)心得(こころえ)(つね)(わが)(こころ)聖教(しょうぎょう)(ごと)クナリヤ(いな)(しる)ナリ。我心(わがこころ)聖教(しょうぎょう)(かがみ)ニアテテ()ルニ、(おしえ)(そむ)クトコロヲバ()メ、(みずか)ラアタルヲバ(いよいよ)ハゲマシ、(みち)ニスゝムヲ学問(がくもん)トハ(もうす)ナリ、只暫(ただしばら)文字(もじ)ヲバイツモ読付(よみつけ)ラレヨ。(まず)イソギ(おのおの)(こころ)(なお)サルベシ。(こころ)(なお)サヌ学問(がくもん)シテ(なん)(せん)カアル。イカニ聖教(しょうぎょう)(ならう)トイヘドモ、菩提(ぼだい)(しん)ナキ(ひと)冥加(みょうが)ナキ(なり)(ただ)ヨロヅヲ差置(さしおき)菩提(ぼだい)(しん)(おこし)テ、(その)(うえ)修行(しゅぎょう)スベシ。足手(あして)安不(やすんぜず)シテ修行(しゅぎょう)スルヲバ所依(しょえ)(なづ)ク。(こころ)(なお)スヲモテ修行(しゅぎょう)(みなもと)トスベシト云々(うんぬん)

というものである。何点か要点を示しておこう。

◎学問をするのは自分の心を直すためである。
◎世の人は知識を求める事にのみ心して、心を正そうとする者はいない。
◎学問とは、その真義が何であるかを考えて、自らの心が正しいのか、間違っているのか、真理の鏡に照らして、誤りは正し、良い所は益々伸ばして努力することをいうのである。
◎勉学にいそしみながら、心を直して行くのである。心が美しくならぬような学問をして、何の益があろうか。
◎いくら勉学にいそしむとも、向上心の無い者、世の為・人の為に生きようとする心の無い者には、天地の加護は与えられず、運にはめぐり難いのだ。
◎つまらぬ事を思わず、気宇壮大な生き方を目指して、日々修行だと思い、苦しい事から逃げず、それを乗り越えて行かねばならない。
◎机上の学問だけでは駄目だ。手足を休めず修行する。つまり実践あるのみである。修行とは行う事、活動する事、実現に向かって行動していく事である。そして心と体のバランスがとれていなければならないのである。

と、いうように私は解釈している。

歳を重ねるに従って、モノやコトの本質をわきまえ、若い時には出来なかった、本来の学問という事を、共に皆さんと自らも学んで参りたいと、念願している。


 奈良学習センター機関誌「芳藻」第117号(令和4年11月)より

公開日 2023-04-25  最終更新日 2023-04-25

関連記事
インターネットで
資料請求も出願もできます!