【学習センター機関誌から】人は何故、伊勢を目指すのか

三重学習センター客員教授
皇學館大学名誉教授
岡田登
(専門分野:日本考古学・日本古代史・伊勢大神宮史)

古代大倭(やまと)王権が、皇祖神として祭っていた天照大神(八咫鏡(やたのかがみ))を、第11代垂仁天皇の時(3世紀末)に、大倭国(奈良県)から「常世(とこよ)の浪、重浪(しきなみ)()する国、(かた)(くに)可怜(うま)し国」伊勢の五十鈴川の(ほとり)に遷し、伊勢の大神宮の祭祀が始まります。
東の海の彼方に永遠の命を育む世界「常世」があると考えた大倭人が、天照大神(太陽)が、毎日生み出される東の、大倭の傍らにある、野・山・海の幸に恵まれた地に住む、心豊かで、麗しい人々、(うま)し国伊勢の人々に、朝夕の御食(みけ)を大神に奉ることを託し、日々の感謝と祈りを奉げる場としました。

これは、また前代の崇神天皇の時、日照不足(太陽の力が衰えた)により、未曾有の飢饉と疫病が流行ったため、生まれ故郷の東の海に近い伊勢に遷して、海の幸を奉り、天照大神(太陽)の力を益すことを考えたものと思います。

本来、伊勢の大神宮は、天皇が国民を代表し、神へ幣物を奉げて、天下泰平・五穀豊穣・子孫繁栄を祈る私幣禁断(私事の祈りを禁ず)の場でしたが、平安時代末以降、神宮の中級神職(権祢宜(ごんねぎ))に始まる御師(おんし)により、北海道南端の松前から九州の鹿児島まで、多くの人々に伊勢信仰が広がりました。

天正13年(1585)、イエズス会のルイス=フロイスが、日本の宗教事情を記した『日本年報』に「天照大神は太陽に化したもの(中略)、賤しい平民だけでなく、高貴な男女も競って巡礼する風があり、伊勢に行かない者は人間の数に加えられぬと思っているかのようである」とあります。
織田信長が、本能寺の変で討たれた3年後の戦国乱世の中、内・外両宮の式年遷宮が復興した年に、人間であることを証明するために、多くの人が伊勢に参宮していました。伊勢は、世界に誇る巡礼センターでした。

慶長20年(1615)の土佐国では、「(せん)()(まん)()、代々神楽より、参下向の目出たさよ」と、多額のお供えやお神楽を上げることより、伊勢参宮をすることを謡っていました。江戸時代の伊勢音頭に「伊勢へ行きたい 伊勢路が見たい せめて一生に一度でも」とあります。
一生に一度、伊勢までの道のりで、多くの人の助け(施行(せぎょう))を受けて、伊勢路(街道)を歩き参宮できることが、多くの人々の憧れでした。

伊勢参宮を「富士登山」に例えると、日本の最高所に登り、日の出を拝むのと同様に、伊勢までの街道を、大変な苦労を重ね歩き、参宮できたことによる達成感・充実感を味わっていたと思います。
また、「人間の体」に例えると、伊勢は心臓と肺臓で、参宮者(道者(どうじや))は血液で、街道は血管、参宮時は静脈、帰郷時は動脈を通って、心身ともに癒され、再生・復活したのだと思います。

多くの人々が、伊勢をめざすのは、天照大神(太陽=光と熱)と豊受大神(食)に、日々の感謝を奉げるため、街道を歩き、心身の癒しと再生を求めていたものと思います。現在、動脈硬化、あるいは破裂した伊勢に向かって歩く人のいない参宮街道を、安全に歩ける街道に、復活させるべきだと考えています。


三重学習センター機関誌「ティータイム」112号(2022年10月)より

公開日 2023-03-17  最終更新日 2023-03-17

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