【教員コラム】健康に生きるとは?

戸ヶ里 泰典
教授(生活と福祉コース)

先日、偶然知り合いから「健康に生きていきたい」という言葉を聞いた。単純には病気をすることなく生きていく、という意味で受け取ることができるかもしれない。が、私の研究分野的にはもう少し深い意味があるので、一端を紹介してみましょう。

よく研究者の間で話に出るのは、健康は条件であって、目的ではない、という言説である。これには同意する方も多いだろう。社会的地位を達成したり、成功したりするための資本として健康があると考えるのは当然かもしれない。なお、健康のためならば何でもする、健康は人生の大目的である、という考え方はヘルシズム(健康至上主義)と呼ばれている。健康になれるという食品や啓蒙書などを目の色を変えて買い漁ったりする人のイメージであろうか。現代社会ではそうした健康への関心が強い人たち向けのビジネスが成り立ち、時には根拠が薄いどころか怪しげな物品や書籍が売れに売れることもある。こうしたことからヘルシズムは批判的に受け止められている。
しかし、だれにでも健康食品を買ったり、健康啓蒙書を手に取ったりすることはありそうだ。健康を願うことはよくないことなのであろうか。話を戻すと、「健康に生きる」という言葉の背後では、健康が条件になっているのであろうか、目的となっているのであろうか。例えば仕事の成功のために身体を犠牲にして病気になってしまうというのは本末転倒ではないだろうか。そうではなく、健康を保ちつつ元気に生きていくと解釈するなら、健康とは生きる条件でもあり、生きる目的でもある。つまり、「健康に生きる」という言葉の裏にはこの両方の意味があると考えた方がよい。

次に、そもそも健康とは何か、健康の定義の角度からみてみよう。
生活と福祉コースで開講される多くの授業では、WHO憲章の前文にある健康の定義が紹介されることが多いので、よく知っている方もいるだろう。「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること」とされていて、健康とは「満たされた状態」であるとされている。「健康に生きる」では、連用修飾の形になっているが、少し穿ってみれば、必ずしも状態にとどまらない動的な意味を含んでいるようにも見える。実際に、健康は状態にとどまらず動的な意味を含むのではないか、このWHOの定義は修正の余地がある、という議論は過去数十年にわたり続いているが、いまだに変更はなく継続している。この動的な意味の健康は、様々な環境に「適応する」という意味で捉えた方がよいという向きがある。それを踏まえると、「(たとえ病気や障害を持っていても)様々な環境にうまく適応して生きていくこと」ということになるだろう。年を取れば、血圧が上がり、膝が痛くなり、人によっては糖尿病やがんを経験するなど、何かしら問題が生じるのは当然で、逆に一病息災という言葉もある。単に、「病気をすることなく生きていくこと」という意味よりも、こちらの意味のほうがより積極的で、かくありたい、と思う人も少なくないのではないだろうか。

春は、引っ越しをしたり、異動や転職をしたり、定年退職をして第二の人生を歩んでいったり、様々な変化が生じる季節である。新しい場所や人々、役割にうまく適応していく必要が出てくる人もいるだろう。人によっては、すぐに適応できる人もいるし、なかなか慣れない人もいるかもしれない。その違いは何か?・・・という話の続きは、「健康への力の探求(’19)」で行っているので関心のある方は受講されたい。また、先に示した健康の定義については、「健康と社会(’23)」の中でも、もう少し詳しく説明をしているので興味のある方はぜひ受講していただきたい。

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(この記事は、2025年2月26日に執筆されました。)


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公開日 2025-03-21  最終更新日 2025-03-21

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