村松 真理子
放送大学東京渋谷学習センター 客員教授
東京大学大学院 教授
(専門分野:イタリア文学)
シチリアの地で作家は迷いなく、答えました。「パッシオーネです」。
地中海最大の島であるシチリア島の中心地、パレルモ近くにモンデッロという美しい海辺の保養地があります。
そこで創設され、その地名を冠する「モンデッロ文学賞」は、1980年代、90年代、世界中の文学者たちの間で、知る人ぞ知る、ものでした。
賞金の額のためでも、多分、シチリア島のエキゾチックな魅力のためでもなく、「先見性」によって。
イタリア語の作家だけではなく、世界の文学者に与えられる国際賞の受賞者から不思議なほどたくさんの作家が、その後数年以内にノーベル賞を受賞していたのです。
1993年モンデッロ賞受賞につづいて翌年ノーベル賞を受賞したのが、日本の作家、大江健三郎氏でした。
当時すでにイタリア語にされていた『飼育』等初期作品集と『万延元年のフットボール』のN・スパダヴェッキ氏の翻訳は訳者解題とあわせ、緊張感のある文体のすばらしいものでした。
モンデッロでの授賞式・記者会見の前日は、古代遺跡の美しいエーリチェを訪れるエクスカーション・プログラムでしたが、バスでの移動中にも取材が入っていました。
イタリアの日刊紙に掲載予定のインタビューは、本人も小説を書いているという若い女性作家によるもの。その第一問が、「文学とは何か、一つの言葉を選ぶとしたら」というものだったのです。
「パッシオーネ」は英語のパッション、「情熱」ですが、バッハの「マタイ受難曲(パッシオーネ)」で使われているような場合は、「受難」ですね、その両方の意味で私はこの言葉を選ぶのです。
そう「パッシオーネ」をどう捉えるか、作家が日本語で説明するのを、通訳として同伴していた私が訳し、二人の文学者をつなぎました。いや、質問は「人生」を表す言葉だったかもしれない。。。
授賞式の日、大江氏は通訳しやすいようにと事前にホテルの便箋に受賞挨拶を書いて私に渡してくれました。
ダンテ『神曲』を読むことを魂のライフワークとしている主人公の登場する『懐かしい年への手紙』をすでに発表し、フランス語訳も出版していた大江氏は、挨拶に、『神曲』で、登場人物の「私」が師ウエルギリウスに、地獄で汚れた顔を草の露で清め、腰にイグサの穂を巻いてもらうという煉獄の島のイメージを引用します。
そして、シチリアの美しい海辺で自らが作家として洗い清められ、新たな出発をすることが叶うと、感謝を述べていました。
その場でさっとまとめられた見事なテクストと、イタリア文学の金字塔ダンテの咄嗟でありながら正確な引用。若い研究者・翻訳者の私は非常に感銘を受けました。
ところが、主催者側と放映を担当していたイタリア国営放送の手違いで、その挨拶の場はとばされ、大江氏の受賞は客席の拍手で終わってしまいました。作家の手書きテクストも私の翻訳原稿も、声に出されることなく幻の挨拶となったのです。
抗議しようする私の怒りとなだめる作家ご本人…
大江氏は、ノーベル賞の前も後も、社会的な発信と行動の「アンガージュマン」を晩年まで続けながら、歴史を生きる個人の尊厳と繋がりとは何かという問いを追求し、それを表現する新しい日本語文学を構築しようとしました。
その文体はときに「読みにくい」と批判されながら、話し言葉と思想や概念を融合させる試みでした。
どんな読者にむかって書いているのか、との問いに作家は答えました。「読者を念頭にして書くわけではありません」
大江氏が言葉を紡ぎ出す瞬間に居合わせ、その場でイタリア語に移し替える経験をしたとき、私はまさに文学の「情熱」と喜びと希望を実感し、心が躍りました。文学を勉強してよかった、これからも文学をなんとか自分の生業としよう!と。
今、滞在中のデカメロンゆかりの丘にある「イタリアルネサンス研究センター」で、訃報を知りました。新しいテクストをもう読めない悲しみと、残された作品への懐かしさ、言葉の響きと面影をみなさんと共有する幸せを感じています。
『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』より
「小さなものらに、老人は答えたい、
私は生き直すことができない。しかし
私らは生き直すことができる。」
東京渋谷学習センター機関誌「渋谷でマナブ」第17号(2023年4月)より
公開日 2023-07-21 最終更新日 2023-07-21