2022年3月23日に、2021(令和3)年度放送大学学位記授与式が国技館(東京都墨田区)において挙行されました。卒業生・修了生(教養学部卒業生6,778名、大学院修士課程修了生228名、大学院博士後期課程修了生8名)の各総代に、岩永学長から卒業証書・学位記が授与されました。
文部科学大臣・総務大臣からのビデオメッセージや同窓会連合会会長からの祝辞をいただいた他、各総代の謝辞、名誉学生表彰、教員の教育研究活動表彰が行われました。
式辞
放送大学に奉職して以来、私が絶えず心に抱えてきた問があります。それは、「教養とは何か」「教養教育とは何か」という問です。本学においては、その創設の当初から「教養」という概念が多用されておりました。今から約40年前、本学はただ一つの学部で発足いたしましたが、その名称は「教養学部」でした。また、初期の学生を対象とした意識調査で入学の動機・目的を尋ねると、最も多くの回答者が選んだ項目は「教養を身に付けたい」というものでした。つまり、本学では、教育を提供する側も、それを受ける側も、ともに「教養」をやりとりするのだという共通の意識があったことは間違いありません。
しかし、そうした学部名が付され、またそのように多くの回答者に選ばれる一方で、「教養」の持つ意味内容は必ずしも具体的かつ明確になってはおりませんでした。教育を提供する側では、「教養学」という固有の学問体系に沿ったカリキュラムを組んでいたわけではなく、個々の独立した専門的教育の束を「教養教育」と総称していたに過ぎませんでした。一方の教育を受ける側の「教養を身に付ける」という動機も、学習の到達点が具体的に定まっていない場合の学修目的を漠然と表現していただけとも思われました。
それでもよかったのかも知れません。例えば、日常的なコミュニケーションの場面でも、「あの人は教養がありますね」あるいは「私は無教養で・・・」といった発話に対して、「あなたのその教養の意味は何ですか」と聞き返す人はいません。それは、はっきり定義されているわけではないけれど、概ね「さまざまな分野の学びによって身に付いた何らかの知的なストックを指す抽象名詞」という程度の理解は共有されているからだと考えられます。これまでのそうした曖昧な共通理解の上に、戦後日本の大学の一部分としての教養教育も行われてきたと言ってよいでしょう。しかし、放送大学は、主要な設置の理念に「大人の教養教育」を掲げてきたほぼ唯一の大学です。本学が「教養」と「教養教育」に対して定見を持つことは社会から課せられた大きな使命でもあると考えています。
冒頭の、「教養とは何か」「教養教育とは何か」という問に戻りましょう。言葉としての「教養」の日本における初出は、江戸後期の儒学者佐藤一斎の『言志録』中の「邦をおさむるの道、教養の二途を出でず」という一文とされています。ただ、その語義は「教え養う」という動詞であり、知的なストックといった意味合いの名詞の「教養」ではないと推察されます。下って大正6年、大正期教養主義の哲学者和辻哲郎は、雑誌『中央公論』で「数千年来人類が築いて来た多くの精神的な宝-芸術、哲学、宗教、歴史-によって、自らを教養する、そこに一切の芽の培養があります。青春の弾性を老年まで持ち続ける奇蹟は、ただこの教養の真の深さによってのみ実現されるのです。」と論じました。「自らを教養する」という味わい深い動詞としての表現を見ると、ここでも「教養」が、知的ストック自体ではなく、それを身に付ける方法として示されていたことが窺えます。
大学の教養教育に関して、われわれに重要な示唆を与えてくれるものの一つに、1828年、アメリカ、イェール大学で出された「イェール・レポート」があります。そこでは、カレッジにおける教養教育の在り方として、特定の専門的分野での学識を深化させることによってではなく、多様な分野の知識・技能を広範に修得することによって獲得される、均整のとれた高度な知性としての教養の提供が主唱されています。レポートは、「優れた教育のための基礎を築く」こと、そして「専門職に固有な内容を教えることではなく、専門職すべてに共通な基礎をおくこと」を教養教育の目的として掲げます。さらに、「知的教養の中で獲得されるべき二つの重要な効果は・・・精神の諸力を拡張し・・・そこに知識を蓄えることである」と言い切ります。イェール・レポートは当時のアメリカの大学全体に強い影響を与え、well-rounded man、つまり「円満にして完璧な人間」の養成を標榜する教養教育が、その後の学士教育の中心に据えられるようになりました。ほぼ二世紀前、日本では江戸後期にあたる時代の教養教育論ですが、私には今でも非常に新鮮に映ります。
今日、放送大学の学部、大学院を卒業、修了される皆さんがここに集っておられます。イェールの卒業生・修了生ほど若くはなく、既に社会人としての年数も経ておられる方ばかりですが、本学での学修で身に付けられた教養は、おそらく当時のイェールの卒業生をはるかに凌駕していると確信します。ただ、ここがゴールではありません。教養教育を修めたということは、ここからより深い学修が始まるということでもあります。今後の皆さんのさらなるご研鑽を大いに期待いたします。
今、世界は少し前には想像もできなかったような混迷の時を迎えております。戦後数十年を経て、われわれの諸科学がおおかた克服した、あるいは克服しつつあると思い込んでいた感染症のパンデミック、大規模な自然災害、理不尽で非合理的な犯罪、そして文化的と信じられていた人々による過酷な戦争行為・・・日々驚くばかりの、怒りと戸惑いを禁じ得ない現実が突きつけられています。しかし、そうした事態に対して何らかの対応がなされると、今度はそれがまた別のトラブルを生む・・・残念ながらそれが現実です。
そうした状況に対して、私たちの教養は、それではまったく無力なのでしょうか。私はそうは思いません。私たち自身が、知的好奇心を持って現実を見る目と、情報を集めその価値を判断する十分な知力と教養を身につけることで、そして、そうした教養人が少しでも増えていくことで、この現状はきっと変えられるものと信じています。ここに集まられた皆さんが知性ある社会の主人公です。確たる自信と教養人としての矜持を持って、これからの人生を生きてください。心より期待しています。
令和4年3月23日
放送大学長 岩永雅也
公開日 2022-03-25 最終更新日 2022-09-01