【学習センター機関誌から】たとえば羊から見たら…世界はどう見えるんだろう?

静岡学習センター 客員教員
静岡大学 名誉教授
森野聡子
(専門分野:メディア論、ケルト学)

イギリスこと連合王国の西部にあるウェールズは人口約300万、その3倍強の羊がいるという山国です。16世紀にイングランドに併合されますが、独自の民族意識や文化は存続し、現在でも住民の約30%が英語のほかにウェールズ語を話します。

ではウェールズはどのように語られてきたのでしょうか?
たとえばG・M・トレヴェリアンの『イギリス史』は、16世紀の併合以降19世紀に至るまで、社会や信仰における緩やかな歩みを除けば「ウェールズには歴史がなかった」と記しています。原題は「イングランドの歴史 (History of England)」。なるほどイングランドから見ればウェールズには語るに足る歴史がないのでしょうが、ウェールズの人々にとって「歴史」がなかった時代などないはずです。
こうした語りがイングランドだけでなく「イギリス全体」の歴史として日本でも広く読まれてきたわけですが、「イギリス」の歴史もウェールズの側から見ればまったく違った物語となることにわたし自身が気づいたのはウェールズに留学してからでした。

歴史だけではありません。あらゆる物語には視点を変えれば別の語りがあるはずです。『カミーユ・クローデル』(日本公開1989年)と『ナンネル・モーツァルト 哀しみの旅路』(日本公開2011年)は、そんな映画です。
それぞれのヒロインは自身がすぐれた芸術家でしたが、「ロダンの弟子・モデル・愛人」、「モーツァルトの姉」として語られ、彼女たちの人生が脚光を浴びることはそれまでほとんどなかったからです。

孤児の娘が家庭教師として住み込んだお屋敷の主と立場を越えて深く惹かれ合うも、彼には狂人の妻がいた。屋根裏から逃げ出した狂女が館に火をつけ自らも死に、ようやく二人は結ばれる―そうシャーロット・ブロンテの小説『ジェイン・エア』(1847年)です。
何度も映像化されているこのラブストーリー、ロチェスター氏の妻バーサの視点から見たらどうなるでしょう。

『広い藻の海』(Wide Sargasso Sea,1966) の主人公アントワネットはジャマイカの生まれ。イングランドからやって来た紳士と結婚しますが、女性であり「植民地の劣等白人」である彼女が、対等なパートナーと夫に認められることはありませんでした。

抑圧のなか彼女は語る言葉を失い、名前も奪われ、バーサ・ロチェスターとしてイングランドに連れてこられます。『ジェイン・エア』のなかで、人語を発せず野獣のようにうなるだけの屋根裏の狂女に声を与えた作者ジーン・リースは、自身もまた西インド諸島で育ちました(父はウェールズ人です)。男性中心の英文学の世界においてリースに光が当たったのは、76歳で書いた本作がきっかけでした。

ウクライナ侵攻をめぐる各国の報道を見るにつけ、固定した視点からものを見ることの危うさ、そして複数の語りに耳を傾け自分で判断することの重要さを痛感するこの頃です。


静岡学習センター・浜松サテライトスペース機関誌「燈」(ともしび)119号(2022年7月1日発行)より

公開日 2023-02-17  最終更新日 2023-02-17

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