【学習センター機関誌から】グローバル時代の経済政策:イノベーションと社会福祉の好循環をめざして

植村博恭

放送大学神奈川学習センター客員教授

1.放送大学のゼミナールで学んできたこと

私たちのゼミナールは、「グローバル時代の社会と経済政策」をテーマとして勉強を進めてきました。日本における社会保障制度、特に、医療保険、年金、介護保険、生活保護といった具体的な制度とそれらの現状を学んできました。さらに、社会福祉や福祉国家の理論を、グローバル時代の日本の社会と経済に即して勉強し、ベーシック・インカム、ベーシック・サービスなど社会保障政策の具体的内容と有効性も検討してきました。

また、社会保障に関わる幅広い経済政策や社会政策の領域として、雇用システムや金融システム、租税制度、さらにはインフレーションについても学んできました。このような研究を通して、私たち独自の「新しい日本資本主義」の具体像を探求してきたのです。

2.グローバリゼーションとはどんな構造変動か

ゼミナールのテーマは、「グローバル時代」という時代認識から出発しています。20世紀後半以降、変動為替相場制のもとで金融のグローバリゼーションが急速に進み、それはリーマン・ショックのような世界的な金融危機をもたらしました。それと並んで、多国籍企業の活動のもとで生産のグローバリゼーションも急速に拡大し、いわゆる「グローバル・サプライチェーン」が大きく発展しています。もちろん、このようなグローバリゼーションは、均質的に進化しているわけではなく、EUや東アジアにみられるように、様々な地域経済統合の動きもあります。しかし、それらはグローバル危機の防波堤として有効に機能しているとは言えません。

グローバル経済は、リーマン・ショックのような金融危機だけでなく、コロナ・パンデミックやそれに伴う世界的インフレーションなどももたらしたのでした。世界経済にとって内生的要因や外生的要因によってもたらされる様々な危機は、グローバル時代には急速かつ広範囲に波及するのです。そのような世界のなかで、いかにして私たちの生活と生命を守っていくのか、これこそが現代の社会保障の課題です。

3.グローバル時代の日本の社会保障

20世紀後半以降、先進諸国は様々なかたちで福祉国家を実現してきました。もちろん、有名なエスピン・アンデルセンの福祉国家の類型、すなわち市場主義型、社会民主主義型、保守主義型という類型の存在が指摘されていますが、日本の場合、たんなる保守主義と市場主義の混合型というよりも、国際展開する大企業の正規労働者中心の独特の企業主義的福祉を持っていることが重要です。しかも、これは女性の非正規労働者を巧みに利用しつつ成り立っているのです。私たちのゼミでも、日本では高齢者女性の多くは、国民年金受給者や第三号被保険者(受給額約6万5千円)であることを知っています。しかも、厚生年金受給者の高齢者女性でも、年金額の平均は男性の3分の2で、その水準は生活保護受給額とほぼ同水準の約12万円なのです。

介護保険制度は、1980年代の家族頼みの「日本型福祉社会構想」が行詰ったあと導入された画期的な制度でした。しかし、それはケアマネージャーによる「居宅サービスプラン(ケア・プラン)」の作成に大きく依存する制度で、ヘルパーさんの人手不足も深刻化しています。また、ケア・プランに対する財政的締めつけも年々厳しくなっています。

日本の社会保障制度は、いまグローバル時代の真っただ中で、困難に直面しています。企業中心の福祉制度のもと、国際競争の激化のなかで日本企業は賃金コストを中心に大幅なコストカットを行っています。少子高齢化のなかで、年金財政の運営がきわめて困難なものとなっています。そして、政府債務はなんと対GDP比260%を超えてしまいました。

4.「成長と分配の好循環」から「イノベーションと社会福祉の好循環」へ

日本では、2年以上前にさかんに「成長と分配の好循環」ということが言われました。それは、賃金を上げることによって労働者の所得を増加させ、消費需要を増大させることで経済成長を促進する政策です。この魅力的な政策は、実は、かつてジョーン・ロビンソンやカルドアなどのイギリス労働党系のケインジアンによって積極的に主張された成長戦略でした。しかし、この戦略は1960年代、各国経済の対外依存度が低かった時代には有効だったとしても、1980年代以降の経済のグローバル化のなかでは、賃金の輸出財コストとしての役割が増し、大きな困難に直面しています。もちろん、これでは賃金の「足の引張り合い(race to the bottom)」になりかねません。実際、日本では「成長と分配の好循環」は影をひそめ、むしろ「資産所得倍増計画」といった本質的にまったく異なるヴィジョンが叫ばれるようにもなったのです。このようななかで、私たちのゼミナールがたどり着いた政策理念は、「イノベーションと社会福祉の好循環」の実現です。われわれの生活を支えているのは、賃金だけではありません。夫婦共働き家計の総所得、医療・教育・介護などのベーシック・サービス、そして年金や生活保護などの総体です。私たちはこれらすべてを「社会福祉(social welfare)」と呼びます。成長概念も再検討されるべきです。GDPの量的な成長だけでなく、適度な成長の内実として、新しい技術や産業の創造、自然環境との調和と持続可能な発展、社会の文化的発展、こららを「イノベーション(innovation)」と呼んでいます。いま、私たちのゼミナールが、研究と討論の結果たどりついたのは、このような広い意味での「イノベーション」と「社会福祉」の「好循環」という政策構想です。もちろん、このような社会経済政策の実現は容易なことではありません。信頼できる政府のもとで、社会保障制度だけでなく、雇用制度、教育制度、技術開発などに関する有効な改革と政策構想が必要となります。それらを、いままさに私たちのゼミナールでは学び続けています。


神奈川学習センター機関誌「神奈川学習センターだより」第96号(2024年4月発行)より掲載

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